球磨・人吉藤田勲

球磨人吉の地域づくり その1

木の文化を守り継承する
球磨人吉は、鎌倉時代から明治維新の廃藩置県まで、
700年以上も相良氏が統治していました。
盆地という地理的な影響もあり、
明治の西南戦争で戦火に巻き込まれるまで、
外部からの侵略もない地域でした。
そのことが、相良氏(藩)が統治を退いた後、
更に100年を超えた818年経った今も
「相良文化」として、国宝青井阿蘇神社をはじめてとする社寺仏閣が、
歴史的価値を有する姿のまま、
今日に存続していることにもつながっています。
寺社仏閣以外にも、独自の風土や習慣、祭り、
価値観などが色濃く受け継がれてきました。
相良藩は、球磨人吉の林業基礎も築き、
その中にはユニークな政策もありました。
例えば、「藩所有の木を無断で伐採した者に対して、
罰として木を切った所に植林させ、
途中この木が枯れた場合には、捕植させる」
という、今でいう”環境保全活動”を行っていました。
このことからも、相良藩が森林、
林業をたいへん大切に考えていたことが伺えます。
球磨人吉の木材は、皇居御所の資材として使用された
市房杉(千年杉)は特に有名
で、
その他にも五木のケヤキ、白髪岳のヒノキなど
良質の銘木産地として全国にも知られ、
「木の文化」とともに818年以上も受け継がれてきました。
[森林セラピー基地 市房山 千年杉は、
相良藩主代々の祈祷所でした。
現在、市房杉も屋久杉同様、厳しい保護規制に守られています。
これまで、有難い事に市房杉を3度落札させて頂きました。] 画像下
クリックで大きくなります。
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しかし、廃藩置県で相良氏が統治を退いてから、
100年以上が経ちました。
この100年ほどで、日本国という大きな枠組みによる方針に従い、
球磨人吉の風土や暮らし方を変え、
失われてしまったものモノや
失われつつあるモノがあるように思います。
時代と共に、外国産の安価な木材に押され、
かつての銘木の産地も少しずつ衰退してきました。
全国的にも林業の衰退が叫ばれる中、
相良藩が育んだ「木の文化」を”相良文化815年”とし、
「木の文化」を地域づくりのキーワードにしました。

球磨人吉の地域づくり その2へ続く

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